「書く」ことも「書かない」ことも尊重される社会であってほしい。言語学研究者の田川拓海さんが語る「ずぼらなブログのすすめ」

はてなブログのユーザーに、自身とブログについて寄稿していただく【「ブログを書く」ってどんなこと?】シリーズ。今回は、はてなのサービスで15年以上ブログを書き続けている言語学者の田川拓海(id:dlit@dlit)さんに「ずぼらなブログのすすめ」について寄稿いただきました。

長年ブログを運営している田川さんですが、時には2,3カ月記事を更新しないこともあるそうです。しかし、更新頻度にとらわれず、「ずぼらに」やってきたからこそ、続けられたのだ、と語ります。研究者としての視点も交えながら、「ブログを書くこと」、そしてそれと表裏一体である「ブログを書かないこと」について、じっくりと語っていただきました。

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はじめに

この記事で伝えたいことはほとんどタイトルで言い表すことができてしまっているのですが,もう少し具体的に言い換えると定期的に更新するような「ちゃんとした」ブログじゃなくたっていいんじゃない? という提案です*1

実際に私自身がずぼらなブロガーですので基本的に以下私のブログとの付き合い方を紹介していくのですが,その背景には意外といろいろ考えていることがあります。その1つ1つは自分のブログで断片的に書いたことがあるものが多いのですが,こうやってまとまった形で書くのははじめてです。

これからブログをはじめようと思っているけれども続くかどうか不安な方やはじめてはみたもののなかなか思ったように運営できていなくて悩んでいる方,あるいは以前は書いていたけれどもさいきん書いてないというような方の参考…まではいかなくてもちょっとした気分あるいは発想の転換のきっかけになれば嬉しいです。

ちなみに私がはてなダイアリーで文章を書きはじめたのは2006年1月ですので,2021年の1月で15周年を迎えていました。しかしそのことに関する記事も書かずに1月の最後の記事から次の記事までちょうど1ヶ月何も更新していません。このことからも私がいかに「ずぼらなブロガー」か分かるでしょう。時には2, 3ヶ月以上更新が止まることもあります。ただこうやってずぼらにやっているからこそ15年続けてこれたということは間違いなさそうです。

なんで書かない(書けない)の?

ここで簡単に自己紹介をしておきます。私は主に日本語を対象にした言語学を専門にしている研究者で,大学教員でもあります。webではブログだけでなくTwitterなどでもずっと実名を出して活動しています。このことも,私が頻繁にブログを更新しない理由と少し関わっています。

このあと少しまじめな話をしますが,私が定期的に記事を更新できないのはやっぱり根がずぼらだということが大きいと思います。文章は仕事柄ある程度書き慣れているのですけれども,論文や本の原稿もあまり定期的に書き進めるタイプではありません。今は仕事や子育てで純粋に時間がないということも大きいですね。ただ,どちらかというと時間があったとしてもほかの原稿に苦しんでいる時の方が更新は止まってしまうような気がします。

毎年,その年に書いた記事を紹介するという企画をここ数年やっているので*2,12月はその記事がさみしくならないように駆け込み的な更新をすることもあります。また,1月はその時に湧き出てきたやる気が少し残っているので勢いで何本か書くことが多いです。1月に書いておくと「今年の更新分はもう何割か終わったな」という気分になれておすすめです。

なんで書かない(書けない)のか,もう少しまじめな話

簡単に言えば,特に自身の専門に関わる話題について書く場合,慎重に書くので時間がかかることが多いです。場合によっては書きはじめたもののうまく書けないためにお蔵入りにすることもあります。これは,適当に書いて不正確だったり間違っていたりする内容が変にwebに残らないように気をつけているからです。論文や学会発表だったら査読などのシステムや同業者のダメ出しによるチェックがありますが,ブログは基本的になんでも公開できてしまいますからね。ただそれでもよろしくない文章を公開してしまうこともあります。ありがたいことにブログの記事でも公開後に間違いを指摘してくれる人が出てきて修正することもありますし,後で自分で読み返した時に間違いに気付くこともあります。どちらも冷や汗ものです。

また,専門家としてできる貢献の1つに「本を紹介する」ということがあると考えているのですが(本は読んだ人でないと正確な紹介ができないので意外と大変な行為),うまいこと絡められる本や引用が見つからなくて書き上げるのに時間がかかるということもあります。

気にしすぎと思うかもしれませんが,適当に書き殴った記事ほど意外に広く読まれちゃったりするんですよね。一方,かなり調べ物に時間をかけて書いた記事はぜんぜん読まれなかったり。

文章表現にも悩みます。語彙(ごい)や文体の選択ということについては,論文などの専門的な文章より難しいと感じることも多いです。私のブログの文章は文体がけっこうばらばらなのですが,いくつかの文体を試しながら書いているというのが理由の1つです。ただあまりにこだわったり悩んだりしすぎると精神的によろしくないので,気軽に書けるトピックの場合はとにかく思いつくままに書くということもします。1つの文章の中でも文体が移り変わることがあるということについては研究もある*3のですが,自分が書いた文章を読み返してそういう現象を発見するのも楽しいですね。

ブログをはじめて数年はまだ大学院生でしたので,この辺りの事情やブログの方針も変わってきています。私は一般的には無名の研究者ですが,プロの研究者でありまた大学教員であるという肩書きは自分が思いもよらぬところで権威として機能するということを何度か体験しましたのでその重みというか怖さを忘れないようにしています。

ただ思いついたアイディアを忘れるのは悔しいので,何か思いついたら論文やブログの下書きに使っているScrivenerというアプリにとりあえずタイトルだけ付けた文書を作っておくのですが,現在未公開のものが39もあります(中には途中まで書いたものも)。このリストを見直すと書く気が湧いてくることもあります。

Scrivenerの作業画面スクリーンショット
Scrivenerの作業画面スクリーンショット

「ブログを書く」という感覚

そもそも私はブログを書くのをwebに文章を置いておくという感覚でやっています。極端な話,私が死んだりして更新できないような状態になったらブログの文章を誰かに(あるいはアーカイブなどに)もらってほしいと考えています。これは書き手によって感覚がかなり違うところでしょう。

個々の記事でいちいち自己紹介をすることが多いのも「その記事だけで読まれる」ことを基本のケースとして想定しているからです。継続的に読んでくれている方々にはうるさいのでしょうけれども,特に専門的な記事に関しては誰が書いたかということが重要だという点を優先しています。

つまりはブログ以外の手段でやっても良いんですが,ブログだと記事の更新や管理が楽なんですよね。また,たとえばTwitterで十分と感じてブログを書かなくなった人もけっこういるのではないかと推察しますが,私はTwitterをある程度やった結果「やっぱりブログじゃないと書きにくいことがいろいろある」と実感して今の運用方法につながっています。ここまで読んでくれていれば分かる通り,ぐだぐだ書きたい質だからでしょう。

ブログを書く良さ

私がいかに適当かという話だけではあんまりなので,ブログを書いて良かった話もいくつか簡単に書いておきます。

実名を出している以上差し障りがあることもあろうかとふだんはあまりどこにも書いていませんが,実はブログを通して知り合った人,名前を知ってくれた人というのはけっこういて,さらにその後の交流につながったこともあります。学会などで知り合った人に「ブログ読んでます」って言われるのはやっぱり嬉しいですね(「Twitter見てます」はどきっとするのに)。

上で書いたように私はブログで(継続的に)記録を取ることを目的にしているわけではないのですが,後で自分の記事を読み返すとけっこう面白いです。今回この記事を書くに当たって過去の記事をいくつか読み返して,確認できたこともあれば忘れていたことを思い出せたということもありました。もちろん中には読んでいて恥ずかしくなるようなものもあるのですが,修正することはあっても基本的に記事は消しません。

また,何かむかつくことが発生した場合に書くことで落ち着けるということもあります。next49さんの「怒りが頂点に達しているときは寝る。」は学生かどうかに関わらず書き手にとっての至言だと思いますが,私は怒りがきっかけになることはそれほど悪いことではないと考えています。ただ,まずは下書きを書くことにしています。大体の場合は書くことで冷静になれるので,落ち着いたらその下書きはそのままお蔵入りということもありますし,少し時間を置いて書き直して公開というパターンもあります。

おわりに:多くの人が「書ける」今

言語学で,ある目的や条件に合うように実際に書かれたことばや話されたことばを集めたものを「コーパス」と呼びます。さいきんは無料でwebに公開されているものも多くなりましたし,言語学になじみがなくても触れたことがあるという人も少なくないでしょう。

田川さんの本棚
田川さんの本棚

特に文章・書きことばに関して言うと,文字を使ってことばを残せる人は長い間限られてきました。ちょっと前まででも,コーパスは雑誌や小説,新聞など文章を書くことを生業にしている人たちによるもので構築されています。

しかし現在,コンピューターなどの機器や技術,webの進展によってより多くの人が文章を残すことができるようになってきています(もちろんすべての人というわけではありません)。たとえば「現代日本語書き言葉均衡コーパス(BCCWJ)」にもwebのテキストが含まれていますし,webのテキストからなるコーパス(ウェブコーパス)も作られています。

書きたいことを自由に書いて公開できることは時にトラブルにつながることもありますが,こういう環境があることを幸運だと考えて,ブログは少なくとも「続けること」をあまり気にせずに書いて良いのではないでしょうか。あるいは,しばらく書かずにブログを放置していた方もまた書いてみてはどうでしょうか。

最後に,ここまで「気軽にちょっとでも書いてみては」という話をしてきておいて何なんだと思うかもしれませんが(むしろ書くという選択肢があるからこそ)「書かない」ということや,書かない人のことも尊重される社会であってほしいと思います*4

著者:田川拓海id:dlit

田川拓海

言語学の研究者・大学教員。専門は統語論,形態論,主な研究対象は現代日本語,さいきんの研究テーマは外来語。1979年生まれ,沖縄県出身・東京都在住。テニスとフリースタイルフットボールの経験あり。単著(書籍)は今のところない。
ブログ:誰がログ
Twitter:@dlit


同シリーズの過去の記事を読みたい方はこちらから!

blog.hatenablog.com

*1:この提案自体は少しずつ内容を変えたりしながら定期的に自分のブログで書いていて,最初のものは「ブログは書き続けなくてもいいので残しておいてくれると嬉しい、あるいは定期的に書かないことのすすめ - dlitの殴り書き」です。

*2:たとえば:2020年の読み逃し配信(過去記事のまとめ) - 誰がログ

*3:たとえば,野田尚史(2003)「テキスト・ディスコースを敬語から見る」『朝倉日本語講座8 敬語』朝倉書店.

*4:この辺りのことについては「書くこと自体に意味がある(少なくとも言語使用の記録として) - 誰がログ」という記事でもう少し詳しく書いています。