日記の「オンリーイベント」で面白さをもっと広めたい。日記屋 月日・内沼晋太郎さんインタビュー

日記屋 月日の店舗

はてなブログは、日記の専門店「日記屋 月日」(東京・下北沢)が主催する「第2回 日記祭」(2022年12月11日(日)開催)に協賛します。「日記祭」の主催者であり「日記屋 月日」の店主でもある内沼晋太郎さんに、日記の楽しみ方や日記に対する考え方、そして日記祭に込める思いなどについてインタビューしました! 聞き手は週刊はてなブログ編集部の藤沢智子です。


日記の魅力は「書く」「読む」どちらにもある

──内沼さんは「日記」をテーマに日記屋 月日という店舗を作ったり、日記祭というイベントを開催したりと、日記に対して非常に多くの熱量を持っていると感じます。内沼さんの目を通した「日記の魅力」を教えてください。

内沼さん(以下、内沼) 大きく「書く」と「読む」の2つに分けられます。

「書く」ことについては、僕は手帳と日記の違いの話をよくします。手帳は予定を記すものですが、同時に「自分の成長」のような、未来に向かっていく要素がありますよね。将来に向けて何かを準備する、自分をスキルアップするなど、「未来への期待」が、手帳にはあるわけです。

けれどそれは「未来への不安」から来ているともいえます。コロナ禍以降は特にその傾向が強いですが、世の中にはこれからどうなるか分からない、あらゆることがいつまで続くか分からない、見えない焦りがあると思っています。そして、書店の店頭に行ってみると、新しいものに乗り遅れるな!と煽る本が並んでいます。

最近、そのせいで心がやられてしまっている人が多いと感じます。でもよく考えてみたら、今生きていることそのものを、もっとかみしめて、喜んだっていいわけじゃないですか。今のこの時点も、過去から見たら将来です。永遠に未来の準備をし続けて、不安になって焦っているだけでは、せっかく生きているのに、もったいない。

内沼 一方、日記には「その日あったことを振り返る」性質があります。いつも同じようなことばかりやっていて成長がないと焦っている人だって、実際は少なくとも毎日何か違うことをしているはずなんです。天気が違ったり、食べたものが違ったりしますし。

単純にそれらを書いていくだけで、文字という形で「存在するもの」になるから、自分の人生が違って見えてくる。ちょっと大げさですけど、生きている実感が生まれる、と僕は思っています。生きるということは日記を書くことなんじゃないかとさえ思います。

日記を書いてみると、少し心が落ち着いて「自分はこのように生きている」ということに気付き、自分で自分を「癒やす」効果みたいなものがある。それが、「書く」ことが持つ一番大きい力だと思っています。

日記屋 月日の中にある日記帳のコーナー

──内沼さんご自身の体験からそう思われたのでしょうか?

内沼 はい。僕も日記を書くと落ち着きます。日記を書けていない時は調子が悪い、日記を書けている時は調子がいい、とさえ感じますね。

例えば、何かもやもやした時は、紙に書いてみたりすることってありますよね。アイデアを考えなきゃいけない時も、何か悩みがある時も、漠然とした悩みも、いったん書き出してみる。そうすると「目に見える、形のあるもの」に変わります。そして自分を客観視できる。頭で考えている時に不安になるのは、自分でもよく全貌が分かっていないからそうなるのであって、書いてみれば最悪の場合にどんなことが起こりそうかが分かる。すると心の準備もできて、少し楽になります。

──確かに、日記には「日々を書き残す」以上の力がありそうです。

内沼 ここまでは、完全にクローズドな、誰にも公開しない日記のことを念頭に置いてお話をしました。もう1つ僕が「書く」ということで考えるのは、文章にすることで生まれる「読まれる」という可能性についてです。

気持ちのいい公開範囲は、人によってかなり違うと思います。絶対誰にも読まれない方がいいという人もいれば、せっかく書いているんだから誰かに読まれたいという気持ちを持つ人もいる。読まれたい相手にもいろいろあって、なるべく多くの人の目に留まりたいと考える人もいますし、友達や家族にだけ読まれたい人もいれば、近しい人たちにだけは読まれたくない、自分のことを知らない人にであればぜひ読まれたいという人もいます。

そこで僕は、読まれたいと思う人に向けて「日記が読まれる場」を用意したいと考えました。望ましい日記の公開範囲は、人によってかなり細かいグラデーションで違っているのだから、その人その人に向けていろいろな場があればいいなと思ったんです。それが、日記屋 月日や日記祭です。

日記を紙の本にするということには、不思議なオープン性とクローズド性があります。インターネットがこんなに発達するよりも前は、出版することが一番世の中に広がる手段だったと思いますが、いまやネットに書く方が広がる可能性が高く、誰に読まれるかも分かりません。

逆に、紙の本にして日記屋 月日で100部売るということはかなりクローズドに近くて、自分の知り合いに直接届く可能性はほぼないけど、ちょっとだけある。そういう面白さもあると思っています。

ZINEやリトルプレスのコーナー

──100部作るということは、100人にだけ届くということですよね。形を持つことでクローズド性が上がるのは面白いですね。

内沼 書く手段はさまざまで、紙の日記帳に書く人もいれば、はてなブログや各種SNS、ツールを使ってネットで発信する人もいる。そういういろいろな「書く」を、みんなが本にしたら面白いと思っています。

ここからは「読む」方の話に移っていくんですが、書かれた日記を読むとなぜ面白いと感じるのか。1つには、リアルだから面白いという要素があると思います。どこかで生きている誰かが等身大で書いていることを読んだ後に、僕は「少し人に優しくなれるんじゃないか」と思うんですよね。

街ですれ違う人、電車の中で乗り合わせた人など、自分の人生の中に直接関わっているわけではない人たちがいる。特に都会で生きていると、すれ違う無数の人はどうしても風景に同化してしまう。

でも、例えば「コンビニで働いている人の日記」を読むと、読み終えた後にコンビニに行った時の気持ちは、すごく変わると思うんですよ。

たった1つのサンプルでしかないけれど、コンビニで働いてレジを打っている人が、その制服を脱いだら、家に帰ってご飯を食べて、こういうことを思ってるんだな……みたいなことに想像力を巡らせることができるようになる。それぞれの人たちがこの世の中で、いろいろなことを考えて生きているというその1つ1つの事実に触れると、みんなが優しい気持ちになれるんじゃないかなと。

日記は「その時を思い出す」ための道具になる

──日記を読むことで、想像力が豊かになるんですね。

内沼 そうですね。「この映画館で、この映画を観た人は、こういう仕事をしているこのくらいの年齢の人で、映画の後にこういうものを食べた」という事実に、誰かの日記で触れることができます。

「今日の入場者数は何人です」というような、数字で人をカウントする状態が一番粗く、解像度が低い理解だとすると、日記を読むというのは、映画館に入場したその人がどんな人生を送っているというところまで分かる、他人に対する解像度の高い状態。マーケティングでいえばユーザーインタビューみたいなもので、定期的にやらないと、相手が誰なのか、何を考えているのかよく分からなくなる。日記本を定期的に読み続けていると、他人に対する解像度の高い状態が保たれて、心に見知らぬ誰かを受け入れる余白が生まれるというか、優しい気持ちを保っていられる気がするんです。

内沼 歴史学では、日記は重要な史料として扱われます。その時代を生きていた人の生活が分かる。歴史の観点で重要な出来事だけでなく、その他の教科書に載らない何でもないこと、普段の生活のことなども書かれています。こういう人はこんなものを食べていたとか、こういうところで暮らしてるとこういうことを思うんだとか、この時代の人はこういう価値観なんだよなとか、そういうことが分かると単純に面白いですよね。

最近の話でいえば、特に2020年の2月ぐらいから8月ぐらいまでの、新型コロナウイルスというものが本当に何なのか全く分からなかった時代のあの不安感って、2年たってみんな忘れつつあると思うんですよ。

出来事は残っても、気持ちはみんなすぐに忘れてしまう。でも幸い、あの時はコロナ禍を書いた日記の本がたくさん出版されました。今はまだ生々しすぎるかもしれませんが、あと何年かたった時に読み返せば、確かに世の中こういう感じだった、みんなつらい気持ちになっていた、自分も同じような気持ちになったなぁ……ということを思い出せる道具になります。さらに何十年も経てば、立派な史料になると思っています。

──2年前の生活や気持ちをはっきり思い出すのは難しいですよね。

内沼 100年後の未来から、この時代のことを知りたいと思ったら、そのディテールは、人々の日記がないと分からないかもしれない。マスメディアの記録に残るのは出来事と、その描写として使われるほんのわずかな断片だけですから。その時代の人がどう感じたか、どんな気持ちだったか。それが日記を通じて残っていくことの価値は非常に高いと感じます。

はてなブログのようなブログサービスにアーカイブされた内容も、何十年も後から見た時に違う価値を持ちますよね。もし200年前のブログがあったら、すごく読みたいじゃないですか。200年前の人ってこういう感じだったんだ!ということが、その時のブログをたくさん読めば、どんどん解像度が高く分かってきて、まるでその時代を生きているような気分になれますよね。

インターネットはまだ歴史が浅いから、遡っても20年くらいが限界になると思いますが、今もたまに「Internet Archive」に残ってる何かが話題になって「20年前ってこういう感じだったよね」と感想が集まることがあったりします。この感じが100年続いたら、ネットサーフィンがもっと面白くなるだろうと思いますね。

「文章が面白い人」を発掘するきっかけを作れたら

──内沼さんは、著名な人や有名人が書く日記についてはそんなに重きを置いてないように感じます。「普通の人の日記」に着目する理由を教えていただけますか?

内沼 本として出版されている日記には、ざっくり分けて2種類あります。「書いた人が有名であるという理由で世に出た」日記と、「面白いという理由で世に出た」日記。

前者の例は芸能人の日記ですね。読者には、文章の面白さよりも手前に「その人について知りたい」という欲求がある。それらの価値は既にはっきりしていますから、店としてはどちらかといえば、無理に扱わなくてもいいじゃない、とは思っています。

一方で後者は、例えば武田百合子の『富士日記』です。本来は夫である小説家の武田泰淳の方が有名だったはずなのに、今では、妻である百合子が夫と一緒に富士の山麓で暮らした時のことを書いた日記が長く読まれている。それは、その人が誰であるかということより、まず日記として、文章として面白いからです。

僕らが、どちらかといえば後者を中心に扱うのは、「書く人が有名でなくても日記は面白い」ということを言いたいからなんです。

無名の人の中にも当然、文章がとても面白い人がいます。僕らが日記屋 月日や日記祭をやっている理由の 1つには、文章が面白い人たちを発掘するきっかけの場になれたらいいという考えがあります。

写真家の植本一子さんによる『かなわない』(タパブックス)は、この10年で出版された日記本の中で代表的な一冊と言えると思いますが、これは最初、植本さんが自費出版したリトルプレスでした。それを出版社の人が見つけたのがきっかけで、出版流通に乗り、広く読まれる本になったんです。

内沼 植本さんが日記をリトルプレスとして出さなかったら、その本を出版社の人が手に取らなかったら、植本さんは書き手としては認知されなかったかもしれない。

日記専門店である日記屋 月日は、そういうことが起こりやすい、きっかけをたくさん生み出す場にしていきたいと思っています。そのために、僕らは無名の人の日記本を売りますよ、日記を書いている人はよかったら本にしてみませんか、というメッセージを強く打ち出しています。

日記屋としては何でもない日記に「グッと」くる

──「日付入りの本」を日記本として取り扱っていると日記祭のお知らせに書かれていました。そのこだわりについて教えてください。

内沼 「何か線引きがないと日記屋として扱う範囲を決められない」というのが一番大きいですね。なので大前提のルールは「日付で始まること」。なぜ日付かというと、「〇月〇日」というのが日記のスタンダードな始まり方であり、そしてその日記というフォーマットの自由度を担保してくれている記号でもあると思っているからです。

──日付の後であれば、小説やエッセイを書いたとしても「その日に考えたこと」になり、自由度は高くなりますね。

内沼 そうなんです。とにかく日付でさえ始まりさえすれば、その先に書いてあるものが小説であろうが、誰かに宛てたものであろうが、写真1枚であろうが絵1枚だろうが、食べたものの記録であろうが、何でも成立するのが、日記という形式の素晴らしいところです。その上で日記屋 月日としては、より個人的なものや日常的なものなど、私たちが「日記的」だと思うものを中心に扱っています。「日記的」だと思えるなら、たまに日付で始まらないものを例外的に扱うこともあります。

──日記本として人気のある内容はどんなものでしょうか?

内沼 一概には言えないのですが、変わった職業や境遇が表に出ている日記は、手に取りやすいですよね。「出会って0日で結婚した人と3ヶ月で離婚したイカ漁師の日記」みたいなタイトルだったら気になりますよね。その人に起こった出来事の特殊性みたいなものもあるかもしれません。

内沼 でも、必ずしも派手なものが人気があるとも限りません。「経理3年目の日記」だったら、経理に配属されたばかりの人が「3年目の人って一体どういうこと考えてるんだろう」と思って手に取るかもしれないし、「阿佐ヶ谷に住んでいる30代女性の日記」という本があったら、学生時代に阿佐ヶ谷に住んでいた人から、東京に引っ越すけれど住む街に悩んでいる30代の女性まで、いろいろな人が買うかもしれない。

──「私の日記」のようなタイトルだと中身の想像はしにくいですね。

内沼 ただ、売れる・売れないの観点で言えばそうかもしれないんですけど、日記屋 月日がグッとくるのは、どちらかといえば「何でもない日記」の方なんですよ。派手な要素はないのに、なぜか「何でもなさ」にぐいぐい読まされる……というような日記の方が、日記屋としては「そう、こういう何でもない日記が売りたいんだよ……!」と思えるんです。僕らがマニアックすぎるのかもしれないですが。

『富士日記』というタイトルの中には、「小説家の妻」とは書かれていないですよね。けれど今も読み継がれている。作る側の工夫としては、確かに書き手の属性が分かりやすいタイトルの方が手に取りやすくなるかもしれません。でも僕らは「書いた人の属性」よりも、やっぱり「書かれた日記の文章」に注目したい。第二の『富士日記』が読みたいし、第二の『かなわない』が生まれる場を作りたい。外側がどうであれ、中身が面白いことが一番です。

「もっと読まれたい」と思っている人は日記を本にしてみては

──ここまでお話を伺って、ブログを紙の本にする、本を作ってイベントに出るなど、日記の楽しみ方にもバリエーションがあると感じました。

内沼 はてなブログで日記を書いていて、「もっと読まれたい」「せっかく書いているから書いたものを楽しんでもらいたい」「自分も日記を楽しみたい」と思っている方は、ぜひそれを本にして、日記屋 月日に持ってきていただきたいし、日記祭にも出展してみていただきたいです。

日記を本にして売ると、きっと、ブログで日記を書いている時とは違う人に読まれると思いますし、読まれ方も変わると思います。

内沼 買って帰った本って、必ず全部最初から最後まで読むわけじゃないですよね。買っただけで満足することもある。自分が本の形にしたものが「何だか面白そうだ」と思って買われたっていう事実は、「読まれた」ということとはまた全然違ううれしさがあると思います。自分が書いたものを本の形にして売ってみる、ということは、とてもいい体験になると思います。

日記屋 月日は、書いたものが本になることをもっと促していきたい。その本が、ひょっとしたらどこかの出版社の目に留まるかもしれない。

とはいえ「あなたも出版デビュー!」というノリとは、ちょっと違いますね。その期待をされても正直困ってしまいますし、必ずしも出版社から出版されることを上位に置いているわけではありません。たった1冊でも、誰かが日記屋 月日に来て、ふと手に取った日記本を買って帰るというシーンを、たくさん生み出したい。日記屋 月日の店舗や日記祭などのイベントが日記を書く人の世界を広げるきっかけになっていくといいなと心から思っています。

また、日記を書きたいけどなかなか書き続けられないという人には、いろいろなアプローチがあると思うんですが、その中の1つに「はてなブログなどのブログサービスでブログを立ち上げる」という手段もあると思うんですよ。

──ブログを「続けるために使う」んですね。

内沼 本にするという目的がある時に、自分で書き下ろし切れる人もいれば、ペースをつかめないと書けない人もいます。小説家だって、書き下ろしで1冊書ける人もいれば、雑誌連載が存在しないと書けない人がいる。

「連載スペースとしてのブログ」を作ることで、日記が書き続けられるようになる人もいるでしょうね。たまに誰かがコメントしてくれたり、はてなスターを押してくれたりする人がいるから書き続けられるというケースもあると思います。自分1人で書いていてもなかなか続かないという人は、ブログにして書いてみることで、続くようになる人もいるんじゃないかなと思いますね。


日記を広めることで「優しい世界」ができればいい

──第2回の日記祭でははてなブログもご一緒させていただきますが、日記祭の活動を通じて、どのようなことを目指しているかお聞かせください。

内沼 日記祭を開催する一番大きな目的は、日記を書く人・読む人を増やしたいということです。なぜそうしたいかというと、「コンビニで働いている人」の例でも挙げたように、それが「優しい世界を作る」ことにつながるんじゃないかと思っているんですね。

僕も、みんなも、1人の人間だし、それぞれいろいろな角度から物事を考えている。例えば、「駅前に大きなビルが建った」という出来事があった時にそれについてどう考えるか、100人いれば100通りの考え方がありますよね。いろいろなお店ができて楽しくなったと思う人もいれば、風景が壊されたと思う人もいるかもしれないし、建物に感動してその建築家のことが好きになった人もいるかもしれない。でも、そのすべての視点がまとまって世の中に出てくることはなかなかないので、そういう想像をする機会はあまりありません。

もちろん、他人と完全に分かり合えることなんてあり得ません。むしろ誰かの日記を読めば読むほど、自分は多くの人とは分かり合えないと気づき、そのことに絶望する人もいるかもしれない。そういう意味では、日記を読むことが向いていないという人も、もちろんいるでしょう。けれどやっぱり、他人が何を考えているかさっぱり分からないという状態よりは、少し他人に対する解像度を上げることができた方が、まだ安心できるんじゃないかとも思います。「こんなことを考えていたんだ」「こんなふうに生きているのか」と日記の書き手に思いを馳せられることは、きっと少なくない人たちを、この世界に向き合いやすい状態にするんじゃないか、と思うんです。

日記を書くことで、心の余裕が生まれ、日記を読むことで、他人を受け入れる心の余白が生まれてくる。人の心を豊かにする、と言うと壮大な話ですが、日記が広がっていくことはそういうことだなと、僕は思っています。

日記祭でも、日記屋 月日でも、僕らが日記を広めるためのいろいろな活動をしていくことで、優しい世界ができるといいなと考えています。

──内沼さん、ありがとうございました!

編集後記

はてなブログでは、ユーザーさんがブログに書き残す生活に密着した内容の日記を「純日記」と呼称し、たびたび記事でご紹介しています。今回、内沼さんの「日記に対する考え方」をお伺いして、はてなブログが純日記に着目する際の視点と近しいものを感じました。日記祭でご一緒するのがとても楽しみです!

第2回「日記祭」の詳細については、こちらをご覧ください。

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