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「ブログは私にとって未知の世界」世界142ヶ国を探訪した80代の旅行作家・森田勇造さんが語る世界の旅とブログ

50年以上にわたり世界142ヶ国を探訪してきた旅行作家の森田勇造(id:moritayuuzou@moritay5612) さん。世界各国の文化や暮らしを伝えるべく、これまでに50冊以上の書籍を刊行しています。また、世界中を探訪した経験を活かし、野外文化活動を通じて青少年の健全育成に尽力する公益社団法人青少年交友協会の活動も行っているそう。

森田さんのブログ「地球へめぐり紀行」では、日本の人々がなかなか海外に出ることができなかった時代の異国の人々の暮らしが鮮やかな写真と濃厚な文章で活写されています。
81歳を迎える森田さんが、なぜ今、旅の記録をブログに残そうと思ったのかについて寄稿していただきました。


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これまでの旅を自分一人で思い返すのではなく、多くの人に伝えたい

 子どもの頃から父親のカメラをいじっていたので、専門的な知識はなかったが、写真撮影には慣れていた。世界各国を探訪し旅行記を書くに必要な記録写真を、これまで6万枚ほど撮影し、現在4万枚ほど存在している。
 2020年2月から新型コロナウィルス感染拡大のため、国内、国外の旅ができなくなると共に、青少年を集めての教育活動ができなくなった。と同時に仲間たちにも会えなくなり、時間的余裕ができたので、これまでの世界旅行を思い返し、多くの写真を眺めていた。
 これまでの旅を自分一人で思い返すのではなく、多くの人に伝えたいとの思いから、青少年交友協会の事務局員と話し合って、Facebookだけではなく、前から地道にやっているブログで書くのが良いのではないかということになって、2020年6月から準備をして、8月頃から発信を始めることにした。

ブログは未知の世界

 私にとって、いろいろな民族の生活現場を踏査することと、日本の後継者を育成する社会人準備教育としての青少年教育活動は、表裏一体の行為であり活動なのだが、長年続けている内に惰性的になっていた。
 新型コロナウィルス感染拡大によって、予期せぬ生活や仕事の変化に、戸惑いを感じていたが、ブログを始めることによって、これまでの人生に踏ん切りがつき、写真と記事によって具体的なまとめができるようになった。
 人間は、好奇心によって、未知を既知にしようとする動物だが、ブログは私にとって未知の世界で、日々の新しい課題の発見があり、意欲と活気が充ちて大変楽しい。
 今のところ新しい生き甲斐を発見して、大変充実した日々を過ごしている。

中国内蒙古自治区フルンベル盟のノモンハン村での一枚

中断の思いを抱えながらも、もう少しもう少しと励ましながら続けたブログ

 “継続は力なり”とよくいわれるが、人が行動を起こしていろいろ体験することは個人的なことで容易であっても、続けることによってその成果を世に問い、評価を受けることは簡単ではない。
 ブログを続けて半年以上たっても、反応が分からないので、独りよがりになっているようで、継続すべきか不安であった。と同時にテーマを決め、文章を書くことは、体験していることなので比較的容易なのだが、沢山の記録写真の中から該当する写真を選り出すのが困難で、心身ともに続けることに対して苦痛すら感じるようになっていた。中断の思いがないまぜに起こったが、時間の余裕があったので、もう少しもう少しと励ましながら続けてきた。
 CDの中に取り込んだ写真を選んだり、インターネット上で文章を書いたりするために両手の人差し指をよく使うので、反り指になって、キーを叩くのが少々苦痛になり、このごろは休み休みやっている。

膨大な旅の記録の中から特に印象深いエピソードをピックアップ

ここからは、50年以上にわたる森田さんの旅の中で、特に印象に残っているエピソードについて、断章形式で語っていただきました。

森田さんご自身による写真とともにつづられた「死にかけた」思い出や「外国人は入れない秘境」での旅、そして衝撃の写真との出会いなど、さまざまなエピソードをお楽しみください!

死にかけた思い出

 人は体験することによって、初めて物事の筋道を理解するのだが、死にかけた体験によって生きることの道理を弁えるのだと思う。
 私は、これまでの旅の途中に何度か死にかけたことがある。中国の内蒙古からチベットまでの約6000キロの旅の途中、青海省の標高4400メートルのリチュー河で水に浸かって死にかけたことは今でも忘れられない。
 蒙古高原やチベット、青海高原では、川で泳ぐ者はいない。標高の高い、水の冷たい川に入ることは死を意味するのである。
 私は、書籍「秘境西域八年の潜行」の著者である西川一三さんの足跡をたどる旅の、テレビ番組のリポーターとしての参加で、ヤクを追って死の川を渡った彼の追体験をしなければならかった。
 リチュー河の自然状況は、日中の気温14℃、水温8℃、風速10メートル、水の流れ秒速1メートル、川幅約50メートル、水深1メートル、水の色は灰緑色、上空には雲が多い。
 私はヤクの群れを追って水泳パンツ1枚で川の中に入った。冷たい水中に2~3分いた後、水から出て間もなく、全身が硬直しはじめ、筋肉が棒のようになり、歯がカチカチ鳴って震えた。撮影クルーは川を渡ったヤクを追って行き、私の側には誰もいない。
 20メートル程離れた所に車があった。しかし、身体が硬直しているので、まるでロボットのようにぎこちなくしか歩けない。自分の身体とは思えない動きの中で、寒さと全身の硬直で、このまま死ぬのではないだろうかと不安がよぎる。
 手足の不自由な動きで、やっと車にたどり着き、エンジンをかけたままであったので、暖かい車内に入れた。暖房した車内で睡魔に打ち勝って故意に手足を動かしているうちに、筋肉のひきつりが徐々に治って、やっとのことで衣服を身につけることができた。
 もし車内に入れなかったら、また車内での睡魔に負けていたら、車の暖房がなかったら、私は死んでいただろう。

ナガランドの大名旅行

 私は、1970年頃から、「日本の民族的、文化的源流を求めて」をテーマに、中央アジアから東の諸民族を踏査した。そして、1980年頃から日本に類似する稲作文化を求めて、中国大陸の東南や雲南地方の旅を始めた。
 雲南高原から南西へ伸びたナガランドと呼ばれる高地は、第二次世界大戦以後、インド政府から入域が禁止され、外国人は誰も入れない、秘境中の秘境であった。
 1975年頃からヒマラヤのブータンやインドのアッサム地方を訪れるため、インドのニューデリーを度々訪れた。そして、知り合ったナガランド選出の国会議員ラノ・シャイザ女史の協力で、当時のデサイ首相に直接会って、「アジア人の目で見た、アジア諸民族の文化の再発見」と訴えた私を、彼は鋭い目で見つめてうなずいてくれた。
 ニューデリーで17日間も私のために尽力してくださったラノ国会議員のおかげで、1979年1月、21日間のナガランド州滞在の特別許可証を手にすることができた。そして、直ぐに、彼女の案内で、カルカッタ(現コルカタ)・ゴーハチ・ディマプール経由で、ナガランド州都のコヒマに向かった。
 コヒマでは、ラノさんの紹介で州の大蔵大臣バームゾー、教育大臣シュエゼリなどに会い、全ナガランドを一周したい旨を伝えた。
 彼らは、日本人の来訪は珍しい、可能な限り協力すると約束してくれ、僅か2日間で20日間に渡る私の旅行計画を立ててくれた。ナガランドはゲリラの出没や治安が良くないこともあって、ナガランド州でも全域を回った人はまだいないとのことで、私の安全確保に最善の努力を払ってくれた。
 私のナガランド全域踏査旅行のために、通訳・案内人・運転手付きのジープ1台、それに護衛用として若い武装警官2人とジープをつけてくれ、私を入れて合計6人と車2台の探検旅行が始まった。費用は州持ちであった。
 行く先々の地域の機関区の長にコヒマからの連絡が行き渡り、各地の警察が協力してくれ、宿泊所が準備されており、まるで大名旅行のようで、秘境を旅しているようではなかった。
 ナガランド州北端のコニャック族のサンユー村を治めるローボン王や首狩り族で有名なチュイ村のカオ王に、地元の警察の協力で会うことができた。また、東北端のビルマとの国境ノクラク地方タンニョキン村のキアムンガン族の家に宿泊することもできた。キアムンガン族は1972年まで首狩りの習慣があったとされていたが、何もなく無事であった。
 そして、中央山岳地帯のチャン族のテンサン村を訪ね、エロチックな若衆宿を見ることもでき、南部ヨルバ村チャカサン族の大きな石牽き行事を見ることもできた。
 第二次世界大戦後、初めての外国人、日本人として、各地方で大変歓迎され、まるで夢のような20日間の大名旅行であった。

ナガランドで撮影された写真

1枚の写真の威力

 私は、アジア諸民族を踏査していることもあって、東京大学名誉教授の江上波夫先生と親しくさせてもらっていた。
 1987年10月、江上波夫先生を団長として北朝鮮の古墳群を視察する「日本の文化使節団」の一員として北朝鮮を訪れた際、私たちは金日成主席の邸宅に呼ばれ、並んで写真を撮った。そして、「いつでもおいでください。国賓として歓迎します」などと言葉を掛けられ、その写真をもらっていた。
 私は1992年4月から、朝鮮半島から中央アジアを通るユーラシア大陸を横断する鉄道の旅を計画した。入国査証を取るために東京の朝鮮総連を訪れたが、無論断られた。次に金日成さんとの写真を見せると、係員が飛び上がるほど驚いて、北京で取れるようにしておきますから北京へ行ってくださいとのことだった。
 北京の大使館でも、けんもほろろに断られた。ホテルに戻り、写真のコピーを持って再度大使館を訪ねると、係員の態度が一変して応対がよくなり、明朝来てくださいとのことだった。
 その翌日の4月21日午前9時半に訪れると、例の写真が功を奏したのか、係員は、「今日の午後3時半発の飛行機で平壌へ飛んでください」と言った。
 飛行機は満席であったが、搭乗でき、無事平壌に着いて午後5時頃ロビーに出る。
 小柄で角張った顔の青年が近づいてきて、「森田さんですね」と言った。彼は朝鮮旅行社の日本語通訳で、29歳の太さんだった。
 「開城往復は高速道路ができたので、外国人はバスに乗るようになっています」
 私は汽車の旅をしているので、汽車でと頼んでも、頑としてバスだと言うので、再びかの写真を取り出して見せると、態度が一変し、すぐにどこかへ電話した。そして、しばらくしてから、「分かりました。汽車で往復できるように手配がつきました」とのことだった。
 私は、立派な高麗ホテルの一室で休息し、深夜の12時20分発の夜行列車で開城へ向かった。何と驚いたことに、私専用の特別車両がついており、女性車掌が2人までつき、飲み物までそろっていた。
 4月22日、午前6時に開城に着くと、太さんの車が平壌から来て待っていた。私は、駅から民族旅館へ直行し、朝食の後に板門店を訪れた。そして、その午後、開城から再びユーラシア大陸横断鉄道の旅が始まった。
 それにしても、金日成さんと並んで写っている一枚の写真が、まるでドラマ「水戸黄門」の葵のご紋のような威力があったのには驚かされた。

北朝鮮で出会った衝撃の一枚

森田勇造id:moritayuuzou

森田勇造

 1940年6月、高知県宿毛市で生まれる。農家の跡を継ぐ約束で東京農業大学を1964年3月に卒業、しかし、東京オリンピック大会が終わった直後の1964年11月から陸路による地球一周の旅に出る。
 世界72ヶ国を探訪して、3年後に帰国以来、旅行作家兼民族写真家として著述活動を続ける。一方、社会の後継者育成としての青少年教育活動と共に、野外文化教育の調査・研究・啓発活動を続け、2002年6月に博士(学術)を取得し、2012年4月には旭日双光章を授与される。
 2001年4月、国立信州高遠少年自然の家所長、2004年9月~2012年国立大学法人東京学芸大学客員教授。現在、公益社団法人青少年交友協会理事長、一般財団法人国民公園協会評議員、野外文化教育学会顧問、民族研究家、旅行作家、野外文化研究所長。
ブログ:地球へめぐり紀行

Twitter:森田勇造 (@moritay5612) | Twitter
著書:「これが世界の人間だ」「未来の国オーストラリア」「日本人の源流を求めて」「遥かなるキリマンジャロ」「世界再発見の旅」「シルクロードに生きる」「秘境ナガランド高地探検記」「チンギス・ハンの末裔たち」「アジア大踏査行」「天葬への旅」「ユーラシア21世紀の旅」「江南紀行」「アジア稲作文化紀行」「地球を歩きながら考えた」「写真で見るアジアの少数民族(Ⅰ~Ⅴ)」「帰らざる者への追憶」「私がなぜ旅行作家になったか」「チンドゥイン川紀行」など56冊の著書と多数の青少年教育活動の報告書。